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初代マーチ伯ロジャー・モーティマー(Roger Mortimer,1st Earl of March, 1287年4月25日 - 1330年11月29日)は、イングランドの貴族、政治家。イングランド王エドワード2世に反乱を起こして政権を奪い、王妃イザベラと共に一時期イングランドの政治を取り仕切った。 == 生涯 == 1287年、ヘレフォードシャーのウィグモア城で第2代モーティマー男爵エドマンド・モーティマーとマーガレット・ド・ファインズの息子として生まれた。父方の祖母モードは初代ペンブルック伯ウィリアム・マーシャルの孫娘で、ロジャーはウィリアム・マーシャルの玄孫に当たる。1301年に婚約者ジョアン・ド・ジェネヴィルと結婚、ラドロー城を始めウェールズ国境地帯の土地も多数相続、アイルランドにも影響を及ぼした。 1304年に父がウェールズでの戦闘で戦死した時は未成年だったため、エドワード王太子(後のエドワード2世)の側近ピアーズ・ギャヴィストンが後見人となった。1306年にウェストミンスター寺院で開かれた式典に参加、エドワード1世から騎士に叙任され、イングランドの政治に関わるようになっていった。1316年にスコットランド王ロバート1世の弟でアイルランド王を称したエドワード・ブルースへの対抗からエドワード2世によりアイルランド総督に任命され、ブルース派の掃討に務め、1318年にイングランドへ戻った。 イングランドではエドワード2世の側近政治が貴族の不評を買い、ピアーズ・ギャヴィストンが貴族派に殺害された後はヒュー・ル・デスペンサー父子が台頭、王の寵愛をいいことにウェールズにおける所領と権勢の拡大を図り、ロジャーはデスペンサー父子と対立して貴族派に加わった。1321年に王の召喚命令を拒絶してランカスター伯トマスと共に反乱を起こしたが、王党派の軍勢に敗れて降伏、1322年1月にロンドン塔に投獄されたが、翌年8月に脱獄、フランスへ亡命した。 フランスにはエドワード2世への不満を抱いていた王妃イザベラが滞在しており、ロジャーはイザベラと親密になり、エドワード2世ら王党派への反撃を準備した。1326年にロジャーら反乱軍はイングランドに上陸、エドワード2世を捕らえ、デスペンサー父子ら王党派を殺害した。翌1327年にエドワード2世を廃位、息子のエドワード3世を即位させ、エドワード2世を死ぬまで監禁した。 イザベラはエドワード3世の摂政として政権を掌握、ロジャーもイザベラの愛人として台頭、1328年にウェールズ辺境伯、マーチ伯に叙任された。しかし、ウェールズに勢力を伸ばしたこととスコットランド王ロバート1世の独立を承認するエディンバラ・ノーサンプトン条約の締結及びフランス王シャルル4世との和睦などで周囲の不満が増大した。1330年3月にエドワード3世の叔父のケント伯エドマンド・オブ・ウッドストックを処刑したことによりエドワード3世もクーデターを決意、10月に議会が開かれたノッティンガムでイザベラと共にエドワード3世派に捕らえられ、イザベラは助命されたが、ロジャーは「悪名高き罪」によりタイバーン刑場で11月29日に絞首刑となり、遺体はバラバラに切断された。 ロジャーの死後マーチ伯爵位は消滅したが、1348年に同名の孫ロジャー・モーティマーがエドワード3世にマーチ伯爵位を与えられ、復活した。また、ロジャーの曾孫アン・ドゥ・モーティマーを通してイングランド王家とも連なり、王族リチャード・オブ・コニスバラと結婚したアンはリチャード・プランタジネットを儲け、子孫からヨーク朝、テューダー朝、ステュアート朝のイングランド王を出した。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ロジャー・モーティマー (初代マーチ伯)」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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